熊本相撲文化研究会は、相撲の歴史を通じて日本の伝統文化を研究し、日本の国技たる相撲と日本の伝統文化の正しいあり様を世に広く発信していこうという有志の集まりです

吉田司家とは

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吉田家の登場

初代吉田追風

初代吉田追風

相撲の歴史は「古事記」「日本書紀」のいわゆる神話時代まで遡ります。
吉田司家は、我が国の国技である相撲の歴史とともに今日まで歩んできました。
文治二年(1186年)、後鳥羽天皇の命により『相撲節会』を復興の為、神事相撲の例式や故実旧例に精通していた吉田豊後守家次(よしだぶんごのかみいえつぐ:吉田家始祖)が召され、相撲の司行事官たることを命ぜられ、名を『追風』(おいかぜ)と賜りました。

家次は、それまで七番勝負が通例だったものを三番勝負に改めた上で相撲節会の復興という大役を無事務めあげ、後鳥羽天皇はその功績を称え、「国技の古き伝統を伝えよ」と訓を託した『獅子王の団扇』や『木剣』などが家次に下賜されました。
こうしてて吉田司家は天皇により相撲の宗家と定められて以降、八百年以上の時を経た現在まで相撲の故実旧例を守り続けてきました。

第十三代追風吉田長助

第十三代追風吉田長助の時代(十六世紀後半)には長引く戦乱の影響で相撲の礼儀礼節も乱れて、『角力』と呼ばれる単なる力比べになっていました。長助はその状態に危機感を持ち、故実旧例にならい土俵上の登場儀礼を定め、相撲道を国技として確立していきました。
その功績が認められ、永禄元年(1558年)長助は正親町天皇(おうぎまちてんのう)の『相撲節会』復興に召されて相撲全般を取り仕切る行事官に任じられ、無事にその任を果たして『マカロウの団扇』を勅賜され神事節会が復活したのです。
また元亀年中(1570年)には関白二条晴良にも召されて『一味清風の団扇』が授けられました。

一味清風の団扇

一味清風の団扇

「相撲の始祖である志賀清林とそれを引き継いだ吉田追風は一味であり、一つの流れなり」ということから清林の「清」と追風の「風」をとって「一味清風」と書かれたということです。
これ以来、行司の軍配には「一味清風」の文字が書かれるようになりました。

また、安土桃山時代には織田信長に招かれ武家相撲の例式を定め、豊臣秀吉に招かれた際には相撲の会を開き自ら行司を務め、褒美として柄に五三の桐を刻んだ団扇等を授かりました。さらに江戸時代になり徳川家康から招かれ将軍上覧相撲の規定も定めました。
この第十三代追風吉田豊後守長助の活躍により、吉田司家の相撲界における地位は確立し、その後全国へと影響力が拡がっていきました。

吉田司家、肥後(熊本)藩へ移住

その後、第十五世追風の時代に朝廷が衰退したため武家奉公を願い出て肥後藩主 細川綱利公に仕えることとなり、寛文元年(1661年)、京都より熊本に移り住み、細川家の下で相撲屋敷を定め、当時の徳川幕府には武家相撲、および将軍上覧相撲の様式、古来の決まりや作法を定着させました。

横綱制度の始まりと行司家の統一

第十九代追風吉田善左衛門

第十九代追風吉田善左衛門

第十九代追風吉田善左衛門は『横綱制度』を考案制定しました。
吉田善左衛門は先代から江戸勧進相撲(庶民の相撲)のことを詳しく教え諭されていて、横綱なるものを案出することを思い描いていました。
善左衛門は細川家の私邸花畑屋敷の九曜の間で十代藩主に横綱免許を授与する許可を得、その後参勤交代のお供をして寛政元年(1789年)十一月、江戸細川藩邸にて谷風梶之助、小野川喜三郎に横綱を免許したことから横綱制度が始まりました。「このたび谷風、小野川力士を故実門弟に召し加え、相撲ぶりを見た上で横綱と申すものを免許する」
現在は『横綱』が力士の最高位になっていますが当時は『大関』が最高位で『横綱』は地位ではなく称号であり、『大関』の中で品格を認められた者に横綱を締めて一人方屋入り(かたやいり:土俵入り)をするための免許でした。そして横綱を免許された力士は吉田司家の門弟(門人)になりました。

『横綱』の語源は、皇宮造営や社寺の建立に際して最手(「ほて」:大関にあたる)の力士が地踏みをした『地鎮めの法』を伝授した『横綱の伝』です。武家相撲も勧進相撲も神道や陰陽道の教義で構成されており、善左衛門はそれらの故事からヒントを得て横綱の作り方を考案し、当時の最高位の力士に横綱を免許してその栄誉を称え、相撲興隆の一翼を担わせようとしたのです。またこれが現代の『地鎮祭』の原点であることは言うまでもありません。

11人目横綱 不知火光右衛門

11人目横綱 不知火光右衛門

江戸時代の後半になり享保の頃には行司の家は全国にかなりの数があり、作法や故実も各流まちまちでした。それらの行司の家を統制し『追風家』という行司の最高地位を確立したのも、第十九代追風吉田善左衛門です。関東に根強い勢力を持っていた『木村庄之助』や『木村瀬平』の一門や、その門流である『式守家』も『吉田追風家』の門弟(門人)として行司界が統一されていきました。故実門弟になった行司の中でも『立行司』には、直門人として細川藩主の許可で吉田司家が帯刀を許し、併せて細川藩の九曜紋入りの陣羽織を授与しました。
善左衛門は、歴代の追風伝承の故実を基に全国の行司の家を統制し、故実を改めて制定して相撲界に周知徹底させ、勧進相撲の故実と別に上覧相撲の礼式を定めました。そして江戸・大阪・京都の相撲会所を統制し、寛政三年(1791年)と寛政六年(1794年)の第十一代将軍徳川家斉の上覧相撲を一分の隙も無く見事に務め上げ、武家相撲の全盛期へと導いていったのです。
このように現代相撲の格式高く潔い土俵での立ち居振る舞いは、第十九代追風吉田善左衛門によって確立され、代々吉田司家に受け継がれてきました。

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